とと姉ちゃん|美子のままごと道具の物々交換のモチーフの実話とは?

 

朝ドラ『とと姉ちゃん』では、舞台は昭和19年(1944年)に入り

戦局も悪化して国民の暮しに暗い影を落としはじめます。

 

この頃には既に食糧はほぼすべて配給制となっていましたが、

物資や食糧の枯渇によって日々の配給はスズメの涙ほど。

 

当時の多くの国民同様、常子ら小橋家も空腹に耐える毎日が続きますし、

食糧の確保に奔走することになります。

 

そして多くの庶民がおこなったことは、田舎への食糧の買い出しです。

 

東京をはじめとする首都圏には既に食糧はほとんどなく、

食糧を確保するために地方の農家へと足を延ばしました。

 

常子たちも千葉に行って古着や着物を食料と物々交換しようとしますが、

交換に応じてくれる農家はありません。

 

そのため美子が祖母の青柳滝子から買ってもらったままごと道具で、

食糧との物々交換を図ります。

 

美子はままごとをする年頃ではありませんが、

その道具は滝子との大切な思い出が詰まった品。

 

手放すことには反対しますが、もはや食糧を入手する手段はないことから

応じることになります。

 

この美子のままごと道具の物々交換ですが、実はモチーフとなっている

実話があります。

 

日本人形

 

コンテンツ

美子のままごと道具の物々交換のモチーフの実話とは?

 

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美子のままごと道具の物々交換のモチーフとなっている実話とは、

大橋鎭子の日本人形のエピソードです。

 

このエピソードは昭和52年(1977年)の「暮しの手帖」に掲載されたもの。

 

昭和20年(1945年)の2月に食料の買い出しに千葉の印旛沼あたりの

農家を訪れた大橋鎭子でしたが、農家の人から人形をリクエストされます。

 

農家の人には幼い子どもがいたのでしょうか、

3月のひな祭りのための人形を欲しいと言い出したのです。

 

そして鎭子は日本人形をひとつ持っていました。

 

その人形は幼い時から鎭子が大切にしていた家族の一員のような存在で、

度重なる戦火からも守ってきたものです。

 

鎭子によればその日本人形は背丈は50センチほどで、首まである黒髪のおかっぱ頭に

優しくつぶらな目の美しい顔立ちの人形だったそうです。

 

しかし前年に岐阜の親戚からもらった米は既に尽きていたようで、

当時の大橋家も食糧の確保に苦心します。

 

しかも当時は既に食糧はどこでも入手困難な状態だったので、

それを持っている農家と持たざる庶民とではまるでガリバーとアリンコのような

力関係です。

 

そのため鎭子は悩みましたが、ついにその日本人形を物々交換に出す決断を下します。

 

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日本人形とのお別れの時には、鎭子はもちろん妹たちや母の久子も人形を抱いて

その別れを惜しんだと綴っています。

 

農家の人も美しい日本人形を見てひどく喜び、白米や野菜の他に鯉を二匹と

味噌をつけてくれました。

 

帰りの汽車の中で鎭子は別れた人形のことを思いつつも、

既に何カ月も魚を食べていなかったので、母や妹がを見てどれだけ喜ぶかを

想像しながら帰路についたとのことでした。

 

ドラマでは鎭子の日本人形は美子のままごと道具に置き換えられて、

しかも滝子との思い出が絡んでいます。

 

一家が生きるためには食べていかなければなりませんが、

その一方でままごと道具には滝子との思い出が詰まっています。

 

最終的には美子もままごと道具の物々交換に応じますが、

それに至るまでの心の揺れをどのように表現するかは注目ですね♪

 

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